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Real ~KoKoRo

心を刺激するテーマ。

小5男児、“幻”のヘビ「シロマダラ」捕獲 香取市内で初

 千葉県香取市玉造で、一部地域で“幻のヘビ”とも呼ばれる「シロマダラヘビ」が捕獲された。体長約40センチで成体とみられる。千葉県立中央博物館千葉市)によると、日本固有種で県内全域にいるが、夜行性で報告例が少ない。2011年版の同館資料によると、同市での報告は初めてだという。

 捕獲したのは同市玉造の小学5年、秋山伊吹君(10)。7日に近くの公園で遊んでいる時、コンクリート塀の隙間にいるヘビを発見。14日に父親で会社員の敏樹さん(45)と一緒に持ってきた棒で捕まえた。

 昆虫やは虫類などの生物に興味があるという伊吹君は「見たことがないしま模様のヘビで、最初はヤマカガシかと思った」。敏樹さんと一緒にインターネットなどで調べてシロマダラヘビの可能性を知り、16日に同館へ持ち込んだ。

 同館によると、シロマダラヘビはナミヘビ科に属する全長30~70センチの小型種。県レッドデータブックに掲載している7種類のヘビのうち「分布域の縮小と生息密度の減少が著しい」というBランクに当たる。毒は持っていないという。

 担当者から「茶色がかった体に、黒のまだら模様がきれいなヘビ」と褒められ、伊吹君は「うれしい」とはにかんでいた。

テニスバッグとバレンタイン

今週のお題「部活動」

中学は3年の時に引っ越したから、

部活をしてたのは約2年間。

高校は部活をしなかったから、

最初で最後の部活になる。

 

その2年間を振り返った時、

自分が何を頑張ったとか、

強豪校に勝ったとか、

いい結果を出せたとか、

そのような思い出はあまり

残っていないように感じる。

もちろん、2年間自分なりに

頑張ったつもりだけど。

 

一番思い出に残っているのは、

バレンタインデー。

その頃は中学1年で隣の女の子が

好きだった。お互いに意識していた

と思う。けれど、中学1年生だから

恥じらいも、周囲の視線も意識する

年頃である。僕は「恋愛なんて興味なし」

という姿勢を貫いていて、相手も恋の話には

触れない。というか触れられない。

 

バレンタイン当日、もしかして

下駄箱に…机の中に…という淡い期待

をしていたけど、当然なし。

隣の席の女の子の顔をさりげなく

見ても、いつも通り。少しがっかりしたけど、

その日はいつもと同じように過ぎて、

部活をして、友達と一緒に帰る。

 

帰り道、やっぱり出る話題は、

「今日チョコもらった?」という話。

僕のグループにはモテる奴はいないので、

「もらえるわけないじゃん」と口をそろえて言う。

僕はその時、隣の席の女の子の顔を思い浮かべて、

少しだけ寂しい気持ちに。

 

当時、鍵っ子だったので、家には誰もいない。

家の前でゴソゴソと鍵を探そうとテニスバッグを

あさっていると、見慣れない小包。

ん?と開けてみると、その女の子からのチョコレートと手紙。

僕はすぐに彼女に連絡をして、

その場の勢いで告白をした。

 

テニスバッグを見る度に、

中学1年にした初恋を思い出す。

週刊KoKoRo12「謎と面倒」

そうだ買い物に行こう…ということで、

駅からの直行バスでアウトレットモールへ。

バスの中はカップルや中国人観光客など。

周りのノイズが気になるので、

耳にイヤホンを差して好きな音楽を聴く。

そしてハッと気づく。「アウトレットモール直行」

と書かれているけど、場所はどこなのか…?

バスの電光板を見ると「入間」という文字。

へー入間ってどこだ、と思いスマホで検索を

と思ったけど、音楽の好きなサビの部分が流れたので中断。

そして、そのまま目的地に。場所は分からず…。

何市なのか、何県なのか、今だに不明。

というか、この時点で調べもしない自分って…。

 

46歳貧困男性が自己責任論を受け入れるワケ

toyokeizai.net

10年近く乗っている軽自動車の隣に立つカズマさん。「これ以上生活が厳しくなったら、車を手放すしかない」と言う(筆者撮影)
現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。

 

この連載の一覧はこちら

「苦しまないで死ねる施設をつくってほしいです。たとえば、“何月何日に終わりにしたい”と連絡したら、安楽死とか、尊厳死とかさせてくれるようなシステム。そうしたら、電車に飛び込む人も減るんじゃないでしょうか」

千葉県の派遣社員・カズマさん(46歳、仮名)は、自身が望む「死にざま」について穏やかに語った。その口ぶりからは奇をてらう気配も、かといって絶望に打ちひしがれた様子もうかがえない。

年収は約240万円、貯金はゼロ

180センチ近い身長に、すらりとした体型。デニムとベージュのカットソーという服装には清潔感があり、白髪が目立ち始めてはいるものの、30代といっても通用しそうな見栄えである。

しかし、実際の生活は苦しい。年収は約240万円、貯金はゼロ。親から相続した木造の家屋は気密性が低く、夏は暑く、冬は寒いが、電気代を節約するため、もう何年も冷暖房のたぐいは使っていない。夏は水風呂で身体を冷やす。冬はセーターとダウンジャケットを着て乗り切るのだが、今年も両手がしもやけになったという。

一時、食費を1日300円に抑えることを目標にしていた。そのために、近所の大型スーパーの特売日に、大量の冷凍食品と、2.7リットルのペットボトルに入った1900円ほどのプライベートブランドの格安ウイスキーを買う。昼は「白米8割、残りの2割に冷凍食品のミニハンバーグとかカニクリームコロッケを詰めた弁当」を持参し、夜は夕食代わりにウイスキーを飲んで眠る。「お酒が強いわけではないので、(ウイスキーを)飲む量はそれほど多くありません。だから、1本で2カ月近くもつ。寝つきもよくなりますし、食費の節約にもなるんですよ」。

 

ところが、1年ほど前に急に抜け毛が増えたほか、前歯の付け根部分が虫歯になるなどの異変が現れ始めた。原因は栄養の偏りである。このため食費1日300円はいったん中断。とはいえ、今も朝はファストフードの100円ハンバーガー、昼は社員食堂の500円のカツカレー、2日に一度は夕食がウイスキーというから、食生活の改善にはほど遠い。

「最近、景気がよくなったと言われているそうですね。それが派遣の給料に反映されることはありませんが、物価が高くなったとは感じます。スーパーの精肉売り場で(値段の高い)和牛売り場のスペースが増えたと思いますし、卵の特売がなくなりました。だから、最近は卵を食べていません」

健康診断はしばらく受けていない。「悪いところが見つかったら、治療におカネがかかるじゃないですか。だったら知らないほうがいい」ということだ。

派遣の給与はよくて横ばい、残業が減った最近は右肩下がりで、自分の生活水準もそれに合わせて切り下げていくしかない。ずいぶん前に新聞の購読をやめ、最近はNHKの受信料を浮かせるため、テレビを捨てた。次は車を手放すしかないが、住まいは千葉の郊外であり、車は必需品でもある。簡単には決断できそうにない。

「自己責任と言われれば反論できない」

しかし、過酷な現実に反してカズマさん本人に切迫感はないようにみえる。「困っているというより、あきらめているという感じです。(日常生活や働き方への)不満や憤りはありません。自己責任と言われれば、反論できませんし、言われても仕方ないと思っています」。

彼が実年齢より若く見えるのは、あらがうことなく、早々に現実を受け入れてしまったからなのか。とにかく、貧困にあえぐ一部の人たちがまといがちな焦りや陰りを感じさせないのだ。

父親霞が関のエリート官僚で、どちらかと言えば教育熱心な家庭で、身分証明を兼ねて持参してくれた中学と高校の卒業証書は、いずれも名の知れた進学校だった。しかし、「勉強は高校で燃え尽きた」と言い、大学は私大の夜間に進学。卒業前に就職先は決まっていたのだが、単位が足りずに留年が決まった。ちょうどバブル経済がはじけたころで、次年度の就職活動はあきらめ、卒業後はアルバイトや契約社員として働いた。

私にはそうは見えないのだが、カズマさんは「自分はコミュ障のところがある」と言う。数年間のアルバイト生活の後、人と接する機会の少ない経理業務なら向いているのではと、簿記やビジネス実務法務の資格を取って面接に臨んだが、経験のない20代半ばを過ぎた男性を正社員として雇ってくれる会社はなかった。

ならば、自営業はどうかと、将来は独立開業できるとして社員を募集していた自転車販売・修理会社に正社員として入った。ところが、そこも6年ほどで退社する。業務の一環として各地の販売店で店長として働いた際、「街の自転車屋さんは思ったよりも来店者とのコミュニケーションが必要な仕事だと気づいてしまったから」だという。

30歳を過ぎた後は、通信関連会社の派遣社員として3カ月ごとの契約更新を繰り返した。不安定雇用ではあるが、今まで雇い止めや長時間のサービス残業パワハラといった被害に遭ったことはない。リーマンショックのときも契約は切られなかったというから、多分、まじめで優秀な人材なのだろう。

とはいえ、必要な人材をいつでもクビにできる非正規雇用で使い続け、キャリアも評価しない、ボーナスなどの福利厚生もゼロといった働かせ方は十分に理不尽だと思う。

当のカズマさんは淡々と「仕方がないことです。どうしても正社員になりたいわけでもない」と言う。彼は取材中、何度も「しょうがない」「受け入れるしかない」と繰り返した。

欲がないというのか、覇気がないというのか――。そんなカズマさんがただひとつ、意志らしきものを持って語って希望は、意外にも家族との縁を切ることだった。

「自分がこんなに欲のない人間になったのは、物心ついた頃から家族に抑圧されてきたからかもしれない」と言うから、具体的な経験を尋ねると、父親から食べ物の好き嫌いをとがめられ、風呂の残り湯に頭を突っ込まれたことが1~2度あったことや、姉に頼まれたテレビ番組の録画を忘れたときにひどくしかられたこと、テレビのチャンネル争いに負けたことなどを挙げた。

しかし、当時は、善しあしは別にして親による体罰は珍しくはなかったし、姉とのトラブルにいたってはごく普通の兄弟げんかの域を出ないようにもみえる。

自宅の相続をめぐって兄弟とトラブル

両親はすでに亡く、「2人とも腫瘍っぽいもので亡くなったらしい」と言う。筆者には彼の子ども時代の経験より、親の正確な死因を知らないことのほうが驚きだった。理解できたのは、家族と縁を切りたいという彼の願望が、「憎悪」というよりは、「無関心」からくるものなのだということだけだった。

最近、両親が残した自宅の相続をめぐって兄弟ともめた。カズマさんは3人兄弟の末っ子。自宅には独身の彼が住み、評価額の3分の2に当たる金額を兄弟たちに支払うことまでは決まった。

問題は、この価格算定の基準をどうするか。できるだけ低く見積もりたい彼と、そのほかの兄弟の間で折り合いがつかなかったのだ。結局、調停を経て解決。その後、一括支払いのための銀行ローンを組み、現在は毎月約6万円を返済している。事実上の家賃である。

一連の遺産トラブルを振り返るときもカズマさんが口にするのは、兄弟への恨みつらみではなく、「これで家族の縁が切れると思って(調停を)頑張りました。ようやくしがらみから卒業できました」という安堵の言葉なのである。

家族に関心がないから、結婚願望もまったくない。これまで付き合った女性は皆、彼に結婚する気がないとわかると、自然に離れていってくれたという。

カズマさんは敬語もそつなく使えるし、話を聞いた喫茶店では、店内が込み合ってくると隣席に置いていた鞄を動かして席を空ける気遣いを見せることもできる。自炊もしようと思えばできるし、簡単な家屋の修繕や錠前の交換くらいなら自分でできるという。ただ、家族や自分自身、社会、政治など、あらゆることへの関心が薄いのだ。

海外旅行にも興味がないから、パスポートは作ったことがない。選挙にも1度も行ったことがない。選挙に行かない理由について「僕ひとりが行っても結果は変わらないのだから、やっぱり行っても、行かなくても同じ。もし、僕のような人間が全員、投票に行ったとしても投票率が上がるだけで結果は変わらない。そもそも与党にはうんざり、野党にはがっかりしています」と説明する。

「与党うんざり」の理由を問うと、彼はロッキード事件東京佐川急便事件を挙げた。しかし、時代は大きく変わっている。そんな大規模な疑獄事件を持ち出されても違和感がある。すべての国民が社会や政治に関心を持ち、投票の権利を行使したとき、本当に結果は変わらないのだろうか。カズマさんの主張はどこかで聞いたことがあるような内容でもあり、空疎な響きがしてならなかった。

「死にたいとも生きたいとも思わない」

怒りも不満もなければ、夢や希望もない――。貧しい暮らしにも早々に順応し、あきらめる。それが、生来の性格なのか、カズマさんが言うように生い立ちに起因するものなのか、それとも、社会でもまれる中で培われたある種の防衛本能なのか。筆者にはわからない。ただ、社会を作る多くの人々は、彼のような考えなのかもしれないとも思った。

カズマさんと会ったのは、サクラが満開を迎える直前の頃だった。すべてに諦観していても、サクラは不思議と人に対して”生き死に”について語ることを促すものらしい。淡くほころび始めた並木の下、彼はこう言った。

「死にたいとも思わない。でも、生きたいとも思わないんです」

奨学金「中退難民」の危機―――バイトに追われ卒業できない

奨学金を借りても足りず、アルバイトに追われ単位が取れない。バイトを減らせば学費が払えない――。そんな状況に追い込まれた末に大学を中退し、安定した就職先に就けず、奨学金の返済ができなくなる「中退難民」が相次いでいる。中退すると、学業の機会が閉ざされるだけでなく、就職もより厳しくなり、多額の奨学金の返済だけは残る。「中退難民」の危機にある若者たちを追った。
(取材・文=NHKクローズアップ現代+」取材班/編集=Yahoo!ニュース編集部)

家賃払えず宿無し生活

都内の国立大学に通う大学4年生の雄也さん(仮名・24歳)は、3年生の時に「ホームレス学生」になった。

「1年間、大学の構内や公園、友達の家を転々としていました」

雄也さんは淡々と振り返る。

NPO法人POSSE」の事務所には若者たちが、奨学金の返済やブラックバイトといった問題の相談に訪れる。雄也さんもPOSSEの相談窓口を利用した。写真は雄也さんとは別に相談に訪れた学生(撮影:八尋伸)

6年前、大学入学と同時に熊本から上京。アパートで一人暮らしを始めた。3人兄弟の長男で父子家庭に育ち、父親の年収はおよそ300万円。父親からの仕送りはなく、大学の授業料や生活費のすべてを自ら賄うしかなかった。

国立大学の授業料は年間およそ50万円、年度末の支払いのためには毎月4万円を貯金しなくてはならない。さらに、アパート代や生活費、教科書代などを含めると、1カ月当たり、18万円ほど必要だ。奨学金8万円とアルバイト代10万円で賄おうと考えた。

だが、大学に通うためにはほかにも様々な費用がかかった。ゼミ合宿の費用やレポートを提出するためのパソコンやプリンター、インターネットの通信料など、出費はかさむばかり。アルバイトに明け暮れるあまり、留年してしまったため、奨学金が止められてしまった。

奨学金の分を補填するために、さらにアルバイトの量を増やしたがそれでも足りず、ついにアパートの更新料が払えなくなってしまった。1年間の宿なし生活。いまは家賃2万円の物件を見つけ一人暮らしをしているが、厳しい状況が続いた結果、4年生になっても卒業に必要な単位の3分の1を残したままだ。

アルバイトに追われ単位の取得がままならない学生もいる(撮影:八尋伸)

過酷なアルバイト勤務が学業に影響

アジアを舞台にした仕事をしたいと夢見てきた。大学を何とか卒業するために、鉄道会社で泊まり勤務のアルバイトを始めた。夕方、大学の授業が終わると、アパートで自炊して100円以内で夕飯を済ませる。そして午後6時半から翌朝9時まで勤務するという生活を続けた。収入は14万円ほどになったが、過酷な勤務は学業に影響する。

雄也さんが通っている国際関係の学部は語学の授業も多く、予習・復習が欠かせない。アルバイト先にテキストを持ち込み、休憩中に勉強をしていたが、睡眠不足で授業に出ても身が入らない。現時点ですでに留年は2回。卒業が危ぶまれる状況だ。

ある日、ゼミの教官から「大丈夫か」と声をかけられ、事情を打ち明けたことがあった。返ってきた言葉に雄也さんは愕然とした。

「学生の本分は勉強なんだから、勉強しなさいと言われたんです。そんなことは、言われなくてもわかっている。でも、アルバイトをしないと飯も食えないし、授業料が払えない。抜け出せない負のスパイラルにはまっているからこそ相談したのに・・・」

奨学金問題の相談を呼びかけるリーフレット(撮影:八尋伸)

泊まり勤務を続け、授業の合間に仮眠をとりながら、1年間で全単位の3分の1をとらなければならない。中退をすれば、残されるのは480万円の奨学金の返済だけだ。

「中退をしてしまうと、奨学金を借りて、ここまで苦労してきた大学生活がなんだったのか、今までの人生の意味も分からなくなってしまいます。しかも、中退後にこれだけの奨学金を返せる仕事に就けるという保証はない。もういっそ、死んでしまおうかと思ったこともあります」

相談に訪れる学生たちの言葉は切実だ(撮影:八尋伸)

経済的に苦しく中退するケース

大学の授業料が高騰する一方で、親世代の平均年収が減少し、仕送り額も減っている。親の仕送り額から家賃を引いた『大学生の1日あたりの生活費』(東京私大教連調査)は、10年ほど前までは2000円を超えていたのが、2015年は850円になった。

奨学金だけでは授業料や生活費が賄えず、アルバイトを増やした結果、卒業できずに中退してしまうケースが続出している。

東京大学大学院の小林雅之教授らが今夏発表した「大学中退者調査」によると、経済的に苦しく中退した人は31%に上った。全国の大学生を対象にインターネットで行った神奈川大学の調査によると「授業料や生活費を稼ぐためのアルバイトによって学業に支障をきたした」と答えた学生は、およそ6割。「金銭的な事情で中退も考えたことがある」と答えた学生は、5人に1人に上っている。

POSSE」には数多くの相談が寄せられている(撮影:八尋伸)

中退後も低収入

2年前、大学4年生の途中で退学することになった智彦さん(仮名・24歳)の年収はかろうじて200万円を超える程度だ。

父親がリストラされ家計をアルバイトで支えていた智彦さんは、奨学金500万円ほど借りていたが、収入が全く足りず、入学直後からアルバイトをいくつも掛け持ちしていた。試験期間もアルバイトをしていたため単位はとれず、就職活動も満足にできずに4年生の前期を終えようとしていた。智彦さんは、9月以降の下半期の授業料を無理して払うより、中退してすぐに働くという決断をした。

中退後、アルバイトを続けながら、あきらめずに就職活動を行った。社員10名程度の小さな会社でようやく正社員の仕事が見つかったが、月の手取りは18万円でボーナスはない。父親の収入も不安定で、弟を含めた4人の家族を支えるためにおよそ10万円を家計に入れているため、手元にはほとんど残らない。

「なんで自分だけがこういう目にあうのかと、親を恨んだこともあります。でも、もう人のせいにするのはやめようと思いました。結局自分で自分の尻をふくしかないんです。誰も助けてくれない」

大学に通う学生たち。奨学金を借りている学生の数は増えている(撮影:八尋伸)

いつ返せるようになるのか目途は立たない

OECD諸国の中で、教育への公的支出が、最下位から2番目に低い日本。経済的に追い詰められた若者たちを支援してきた、NPO法人代表で聖学院大学客員准教授の藤田孝典さんは、「子どもたちの学びを支援することは、彼らを“良き納税者”に育てることに繋がる。教育への支出をためらうことは、社会に大きな損失になると認識するべき」と指摘する。

現在、政府は、給付型奨学金について検討を始めている。自民・公明両党は、住民税が非課税の世帯の学生を対象に、月額3万円、2万人程度の規模にするという案をまとめた。しかし、財源に制約がある中で、今後、どのように対象や給付額を広げていくのか、判断は難しい。

社会の未来を担う若者たちが、奨学金によって将来の選択が狭まってしまうような事態をどう防ぐのか。さらに、奨学金を返還しながら自立した生活を送るために、どう就労支援をしていくのか。課題は山積している。

智彦さんには奨学金の返還を求める通知が届く。その額は月々3万円。現状では払うことはできず、当面、支払い猶予の申請を行う予定だが、いつ返せるようになるのか、目途は立っていない。

奨学金の返済も大きな人生の勉強代だと思うようにしました」

智彦さんは諦めたようにそうつぶやいた。

大学に通う学生たち。奨学金の返済に不安を抱える学生もいる。(撮影:八尋伸)

[写真]
撮影:八尋伸
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝

「お願い、戻って」 行方不明者、年間8万人超の衝撃

news.yahoo.co.jp

 

ある日、肉親や知人が突然、姿を消す——。あなたの周囲でそんなケースはないだろうか。日本では1956年以降、毎年8万人以上が行方不明になっている。残された家族は「なぜ」を問いつつ、「あの時、こうしていれば」と自らを責めることもある。どこかで元気に暮らしているのか、そうではないのか。ひたすら帰りを待ち続ける当事者たちに迫り、行方不明者の周辺を追った。(Yahoo!ニュース編集部)

 

「ここ1、2年、幸せと思ったことはない」

「息子に連絡が取れない、っていう事実があるわけですよ。『幸せだわ、私』って、この1年2年、思ったことない。何かが絶対欠けているんです。それがすごく苦しい」

静岡県に住む小嶋真美さん(55)は絞り出すように言った。1人息子の雄飛さんが28歳で失踪してから、既に2年余り。2016年春に取材班が密着取材を始めた際も、疲れがにじんでいた。

息子の行方が分からない。その苦しさを語る小嶋真美さん(撮影:長谷川美祈)

雄飛さんは親元を離れ、愛知や群馬などの各県で契約社員やアルバイトとして働いていた。職場に馴染めないことも多く、すぐ辞めては別の職場に移る状態だったという。

失踪、全く突然に

真美さんと夫は、伊豆高原の自宅で喫茶店を経営している。そこに「息子失踪」の連絡があったのは、2014年12月のこと。愛知県の勤め先の寮から姿を消し、連絡が取れなくなった。全くの突然だった。

真美さん夫妻は、わずかな手がかりを頼りに行方を捜した。しかし、居場所はつかめない。

真美さん夫妻が経営する喫茶店。店では普通に振る舞っても、「欠落」は埋まらない(撮影:長谷川美祈)

真美さんは言う。

「(両親の期待に)応えられなかった自分を悔しく見てるんじゃないかな、って。叱咤激励(のつもりだった)が、追い込んじゃったところもあったし」

役者を目指す息子「輝いてた」

真美さんは25年ほど前に離婚し、5歳だった雄飛さんを引き取った。そして10年ほど前、敬一さんと再婚する。

真美さんの目に、小さい頃の息子は穏やかで控えめな性格と映った。特に離婚後は、母が忙しく働いていたこともあり、わがままを言ったこともほとんどないという。

雄飛さんは高校を卒業すると、役者を目指し、芸能プロダクションの養成所に入った。アルバイトで生計を立てながら、レッスンに励む日々。その当時のことを真美さんも「好きなことをやってる時って、やっぱり彼は輝いてた」と表現する。

20歳の成人式を記念した写真。雄飛さんの表情は明るい(撮影:長谷川美祈)

歯車が狂い始めたのは、雄飛さんが養成所に入って3年目のころだ。次のレッスン課程に進むための試験に落選。養成所に残ることができず、役者への夢を見切ってしまったのだ。

それ以降、息子は職を転々と変わるようになる。

「役者をやりたいんだったら続けなさいと言ったつもりだけど、本気で言ってなかった。本人が決めればいいと、自分と同じ目線で突き放したかな、って」

真美さん夫妻の自宅兼喫茶店。息子はここに姿を見せない(撮影:長谷川美祈)

息子は東京にいた。母、手紙を書く

雄飛さんが生まれ育ったのは、東京・品川だ。両親は近辺のネットカフェや本屋など、息子が立ち寄りそうな場所を手当たり次第に捜したこともある。真美さんは「親子の会話をさせなかった自分がいる」と自省し、息子と向き合ってこなかったと悔いる。

東京の人混み。息子を捜し回った(撮影:長谷川美祈)

息子の足取りをつかめたことがある。密着取材を始めた直後の昨年5月。居酒屋チェーンを展開する東京の企業から「雄飛さんを採用する」という通知が伊豆高原の自宅に郵便で届いたのだ。

失踪から1年半。自宅を連絡先にしていたこともあって、真美さんは「この通知は息子からのメッセージ」と捉えた。「ここで自分は頑張る、って。見えないアピールをしてきたんだな、と」

このとき、両親は東京の職場を訪問しないことにした。息子の新しい生活。それがやりにくくならないように、と考えた結果だ。その代わり、真美さんは手紙を書いた。長くはない文面。縦書きでペンを走らせた。

息子に手紙を書く真美さん(撮影:長谷川美祈)

渡したい物や小荷物をお送りしたいと思います。



独身寮の住所などお知らせ下さい。



身体に気をつけて



頑張ってね。

返信はなかった。

息子への手紙。朝顔の絵があしらわれていた(撮影:長谷川美祈)

東京で再び失踪

それから約2か月後、会社の人事担当者から「雄飛さんが1週間前から出勤していない」という連絡が入った。再び姿を消したのである。真美さんは急ぎ、東京へ行き、人事担当者に会った。そこで息子の近況などは聞いた。しかし、行き先に関する手掛かりは何も見つからないままだ。

再び続くことになった「何かが絶対的に欠けている」日々。真美さんもまた、自問しながら言う。

「何で会話ができなかったんだろう、って。どこかで相手を責めてしまうけれど、そういう話をさせなかった自分がいるんですよね」

行方不明者の4割は10〜20代

「行方不明者」とは、生活の本拠を離れて行方が分からなくなり、家族などから警察に行方不明者届が提出された人を指す。

警察庁の統計によると、2015年の行方不明者は約8万2000人だった。近年はおおむね8万人台で推移している。年齢別の構成比は、70歳以上の高齢者がおよそ2割、10〜20代は4割ほど。原因別では、認知症を中心とする「疾病関係」が最も多く、「家庭関係」「事業・職業関係」と続く。

 

 

高齢者の場合は、認知症の徘徊で自宅に戻れなくなるケース、病気を苦にして「家族に迷惑をかけたくない」と自ら姿を消すケースなどがある。高齢者は1人で遠出しにくいことから、自宅周辺で短期間のうちに見つかることが多いものの、郡部では山の中などに迷い込み、遺体で見つかる例も少なくない。

支援のNPO ホームページで不明者の情報公開

行方不明になった人をボランティアで見つけ出そうという団体もある。東京都多摩市のNPO法人「日本行方不明者捜索・地域安全支援協会」もその一つで、2009年に発足した。同様の団体としては日本初。ホームページ上で行方不明者のプロフィールなどを提供しながら、関係機関とも協力を続けている。

理事長の田原弘さんは警視庁や大手調査会社などで通算約50年間、行方不明者に関わる仕事を手掛けてきた。

NPO法人「日本行方不明者捜索・地域安全支援協会」の理事長、田原弘さん(撮影:長谷川美祈)

田原さんによると、10〜20代の行方不明者には家庭の問題が関係している場合が多いという。核家族や共働きが増える中、最近では家庭内で親子の会話も減っている。そうした状況で育った子どもが社会に出ると、一部には学校や職場の環境になじめず、姿を消したり、引きこもったりするという。

24歳男性もある日、突然

東京都荒川区に住む宮本正榮さん(75)、妻のはるみさん(75)、長男の剛志さん(41)は15年間も次男・直樹さんの帰りを待ち続けている。宮本さん一家にとっても「行方不明」は突然のことだった。

息子の失踪について語る宮本正榮さん、はるみさん夫妻(撮影:長谷川美祈)

2002年3月3日、日曜日の午後3時半ごろだったという。「今夜は夕飯はいらない」と言って、直樹さんは自宅を出た。当時24歳。見送った正榮さんによると、変わった様子は何もなかった。次男はそれまで無断で外泊することもなかった。それなのに翌日も戻らない。

2日後の火曜日。これも突然に福岡県の門司海上保安部から電話が入った。「船室に荷物だけを残し、本人が見当たらない」と言う。免許証、財布、メガネ、コンタクトレンズなどを残したままだった。

弟が乗っていたのはこの船ですー。兄の宮本剛志さんが説明する(撮影:長谷川美祈)

門司海保の調べなどで、直樹さんは日曜の夜7時10分に東京湾フェリーターミナル発のフェリーに乗ったらしいことが分かった。徳島経由、新門司港行き。下船の形跡がないため、事件や事故の可能性も疑われ、海保や警察が動いた。それでも手掛かりはない。船内で直樹さんを見かけた人はおらず、航路上で海中に転落した可能性はない、との報告が家族にもたらされた。

宮本さん一家による自前の捜索は、ここから始まる。

「この人を捜して」九州でもチラシ配り

自宅近くの警察署に行方不明届を出した後、手製のチラシを作って自宅周辺や通っていた大学、アルバイト先などに配って回った。フェリーに乗るまでの経路を考え、バス停や駅、東京湾沿岸でも配った。さらに、寄港地の徳島、目的地の九州は全域を対象にした。テレビや雑誌の取材も積極的に受け、メディアを通して情報提供を訴えたこともある。

手製のチラシ。東京都内でも九州でも、思い付く場所で配った(撮影:長谷川美祈)

そんな中、千葉と長野、徳島の各県で目撃情報があった。長男の剛志さんが現地に向かい、情報を確かめたが、違っていた。剛志さんは「やれることは全てやってきたつもりです」と話す。

「見当もつかない。なぜ…」

家族によると、直樹さんは明るい性格で、友だちもたくさんいたという。大学時代には東南アジアなどを1人旅。将来は、開発途上国の子どもたちのために学習塾を開きたい、と語っていた。

アルバムに残された宮本さん一家の写真。直樹さんは良く日焼けしている(写真:家族提供)

失踪当時は大学を卒業し、高校生の時から続けていたビル清掃のアルバイトを続けていた。それも熱心にこなし、バイト先から「正社員にならないか」と勧められていたという。

家族は「何でいなくなってしまったのか。見当もつかない」と口をそろえる。理由が分からないからこそ、自責の念も募る。

「もう少しね、相談のできる親になっていればよかったのかなと」と父は言い、兄は「(仕事のことで)相談された時に、もっとちゃんと話をすればよかった」と悔いる。その横で母はうなだれていた。

 

 

宮本さん一家3人。それぞれに悔いがある(撮影:長谷川美祈)

「失踪宣告」の申告を断る

NPO法人「日本行方不明者捜索——」理事長の田原さんは、父の正榮さんに「失踪宣告」を勧めた。失踪宣告とは民法に則った手続きで、肉親らの請求により、家庭裁判所が決定する。音信が7年間途絶えた場合、法律上、「死亡」とみなすもので、親族らとの法律関係を解消することができる。

田原さんの助言に対し、父は首を縦にふらなかった。

「直樹が死んだなんていうことは、1回も考えたことはない。直樹のことを思わない日なんて1度もない。1秒たりともない」。それでも、苦しさは続く。「でも、できるだけ直樹のことを忘れようとしているのも事実。そればかり考えていると自分の体が参っちゃう。どこに住んでいてもいい、健康であれば、と。それだけを思って、今日まで生きてきました」

宮本さんの自宅の壁には捜索に関するチラシ。一部は黄ばんでいた(撮影:長谷川美祈)

正榮さんは脳血栓を患い、母のはるみさんは介護が必要な状態だ。長男の剛志さんは「父と母が元気なうちに…。帰ってこなくてもいいから、どこかにいるとか、話せるとかになれば」と念じている。

所在未確認 これまでに63万人

宮本さん一家のように、身内の所在が分からず、苦しんでいる人々が、この日本にはたくさんいる。警察庁によると、統計が残る1966年以降、およそ63万人にも及ぶ行方不明者の所在が確認されていない。

家族らにできることは限られているかもしれない。でも、諦めきれるはずもない。NPO法人「日本行方不明者捜索——」は、ホームページ上に行方不明者の情報を掲載し、情報提供を呼び掛けている。理事長の田原さんは「行方不明者の捜索には、信憑性の高い情報をより多く得ることが重要です。そのためには、早い段階で広範囲に情報提供を呼び掛けること大切」と言う。近年では、SNSなどネットを縦横に使うことも効果があると言い、実際にSNSによる発信が居場所判明に結びついた事例も少なくない。

田原さんは、とにかく諦めないことです、と繰り返している。

 
 

情報提供の呼びかけ

行方不明者について情報をお持ちの方はNPO法人「日本行方不明者捜索・地域安全支援協会」に連絡をお願い致します。情報提供の記入フォームは、同協会のホームページにあります。

この記事に登場する行方不明者2人のプロフィールは、同協会によると、以下の通りです。雄飛さんは、母・真美さんの再婚前の姓「児玉」を使っています。

 

 

なお、ヤフー株式会社、および、この記事制作に協力した株式会社オルタスジャパンに対して行方不明者に関する情報をお寄せいただいても、個人情報保護法の規定により、その情報を第三者たる「日本行方不明者捜索・地域安全支援協会」に伝えることはできません。ご了解ください。

[制作協力]
オルタスジャパン
[写真]
撮影:長谷川美祈
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝

無縁化、社会的孤立――「貧困集中地区」から見える日本

news.yahoo.co.jp

白波瀬達也(社会学者)×湯浅誠(社会活動家)

血縁・地縁・社縁を失った人々が高齢化したとき、地域はどうあるべきか。その課題が真っ先に表れてきたのは、貧困が集中する地域だ。2003年からあいりん地区(通称・釜ケ崎)のフィールドワークを続け、『貧困と地域』を刊行した社会学者・白波瀬達也氏と、20年以上にわたり貧困の現場で支援活動を行う湯浅誠氏が語り合う。
(構成:ノンフィクションライター・古川雅子/Yahoo!ニュース 特集編集部)

「ここから先が釜ケ崎だ」という人もいる「しょんべんガード」と呼ばれる高架下(撮影:遠藤智昭)

どん底の不況の中の活気

湯浅 白波瀬さんとあいりん地区との関わりはいつからですか?

白波瀬 関西学院大学の大学院に進学した2003年です。世間では「格差社会」が時代のキーワードになり始めていました。

しらはせ・たつや/関西学院大学社会学部准教授。社会学博士。1979年京都府生まれ。2007年から2013年にかけて地域福祉施設「西成市民館」でソーシャルワーカーとして活動。専門は福祉社会学、宗教社会学、質的調査法。2017年、『貧困と地域』(中央公論新社)を上梓(撮影:岡本裕志)

湯浅 私は1995年から東京の渋谷を中心にホームレス支援活動を始めましたが、しばらくはあいりん地区のような「寄せ場」(日雇い労働者が集まる地域)と言われる地域には行ったことがありませんでした。

2000年ごろに東京の山谷に行って、驚きました。路上で寝ている人がいたり、平気でたき火をしている人がいたり。路上で寝ている人は渋谷にも新宿にも池袋にもいましたが、彼らは街の片隅でひっそりと生活していました。山谷では、野宿者や日雇い労働者が街の中心部で生きていた。

同じ頃にあいりん地区にも行って、さらに驚きました。喧騒の度合いが違う。街の辻々に人々がいて、活気がある。混沌としていた。

ゆあさ・まこと/社会活動家。法政大学現代福祉学部教授。1969年東京都生まれ。2008年末の「年越し派遣村」村長を経て、2009年から足掛け3年、内閣府参与に就任。著書に『反貧困』(岩波書店)『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版)など(撮影:岡本裕志)

白波瀬 あいりん地区でも、1990年代前半にバブルが弾けると関西の建設需要が冷え込み、日々の宿泊代を工面できなくなり、路上で夜を過ごす労働者が急増しました。1993年の新聞ではあいりん地区だけで700人の野宿者がいると報じていましたし、90年代後半には千人を超えたといいます。

ところが、1995年の阪神・淡路大震災で建設需要が少し盛り返した。湯浅さんがご覧になった混沌の中の「活気」はその名残かもしれません。

「釜ケ崎銀座」から超高層ビルあべのハルカス」をのぞむ。あいりん地区は、大阪市西成区の北東部にある1平方キロメートルに満たないエリア。もともとの地名を「釜ケ崎」と言った。1922年の町名変更で「釜ケ崎」の地名は消滅するが俗称として残る。1960年代に暴動が頻発、行政が対策のために地区指定を行い、1966年に「あいりん地区」と改称された(撮影:遠藤智昭)

家庭的なスラムから、個人的なドヤ街へ

湯浅寄せ場」でも、都心の野宿者のテント村でも、社会の憂き目にあった人々が寄り合う場所には、共通して独特の雰囲気がありますよね。渋谷でホームレス支援をしていた時、飯島さんというおじいさんがいました。会うと必ず「おっちゃん、タバコくれよ」と寄ってくる。知的障害があって、施設にいたのが逃げ出してきたのかもしれない。放浪癖があって、しばらく見ないなと思ったら、名古屋に行っていたとか、東北に行っていたとか。歩いてですよ。そこにいるみんなは、飯島さんに弁当を分けたり、金が入れば飯を食わせたりする。でも、その人が負担になるような感じはないんです。「みんな、すねに傷持ってるんだからさ」というような、おおらかさを路上は持っていました。

白波瀬 寄せ場でもそういう光景が見られます。

湯浅 貧困層が居住する場所という意味では「スラム」という言葉もあります。ドヤ街(ドヤは宿〈やど〉の逆さ言葉で、簡易宿泊所のこと)のイメージが強いあいりん地区ですが、白波瀬さんの著書『貧困と地域』で興味深いのは、「釜ヶ崎は『スラム的な性格をもつドヤ街』」と書かれていることです。

白波瀬がまとめた「スラムとドヤの違い」。「社会学者の大橋薫さん(1922〜。明治学院大学名誉教授)が1966年に雑誌『都市問題研究』に発表された論考をもとにしています」(白波瀬)

白波瀬 1960年代までは、釜ケ崎には子どものいる世帯が比較的多く住んでいました。1961年には、この地区にあった萩之茶屋小学校(2015年3月閉校)には1290人もの児童が在籍していました。

3畳間に家族全員が過密状態で住まうような環境で、スラムの住民たちは、子どもの不登校や、売春で生計を立てる女性などの問題を抱えていました。その代わり、家族持ちが多く、定住性も高いですから、人間関係は比較的緊密です。

ところが、1970年の大阪万博に向けて日雇い労働力の集積地としての性格が強まり、単身男性が集まるドヤ街の色合いを濃くしていきます。

全盛期には労働者であふれていたあいりん総合センターだが、今は閑散としている(撮影:遠藤智昭)

あいりん総合センターに集まっている労働者斡旋の車。労働者の高齢化が進み、工事の集中する年度末などには思うように人数を集められない業者もいる(撮影:遠藤智昭)

湯浅 山谷や釜ケ崎は、安くていつでも使える労働者を資本の要請で生み出して行ったんだと語られることが多いですが、違う面もあるのではないかということを、白波瀬さんは本書の中で描き出しています。つまり、60年代に行政のスラム対策によって斡旋された公営住宅へ移った人、転居できる経済力のあった人などが抜けていき、残ったのが、最も厳しい境遇にある日雇い労働者だった。結果的に、労働問題がせり上がってきたのだ、と。

白波瀬 はい。この地区の問題は、すべてが日雇い労働者の貧困問題に集約できるわけではありません。そして、なんらかの課題を抱えた人たちが取り残されていく状況は、どんな地域でも起こりうる。僕がこの本で書きたかったのは、「地域」という視点で貧困問題を見ることの大切さです。

湯浅 非常に現代的なテーマだと思います。

白波瀬は「50年以上にわたって貧困を吸収し続けてきたあいりん地区を問い直したかった」と執筆の動機を語る(撮影:岡本裕志)

孤立死、他人事ではない

白波瀬 先日、「東洋経済オンライン」に、あいりん地区の単身高齢生活を取り上げた記事を寄稿しました。「社会的孤立の帰結としての孤立死があって、あいりん地区ではこうなっていますよ」と。

湯浅 私も読みました。

白波瀬 そうしたら、「俺と一緒やん」という反応が多かったんです。例外的な地域だと思われてきたあいりん地区が、「自分たちの未来の課題と地続きの場」と捉えられるようになっている。「それの何が悪いの?」という声もありました。孤立死を社会問題であるかのように論ずることへの違和感です。「ひとりで生きて、ひとりで死んでいけばいいじゃないか」と。社会全体の個人化が想像以上に進んでいることを実感しました。

萩之茶屋南公園(通称・三角公園)にある、今ではめずらしい街頭テレビ(撮影:遠藤智昭)

愛煙家も多いが、タバコはどんどん値上がりしているため旧3級品の安い「わかば」を愛飲している人が多い(撮影:遠藤智昭)

湯浅 その傾向は確かにあります。

白波瀬 だからといって「地縁を育みましょう」というような単純な解ではないとは思います。ただ、興味深いのは、無縁化の最先端を行くようなあいりん地区で、数年前から、弔いへの関心が高まっていることです。

「いつ死のうと構わないし、自分が死んで悲しむ遺族もいない」とぶっきらぼうだったのが、「やっぱり葬式はあげてほしい」とか、「自分と似た境遇の人の葬式なら参列する」という人が増えている。

湯浅 慰霊祭も開かれるとか。

白波瀬 はい。毎年お盆に夏祭りの一環で慰霊祭が行われます。いつもはバラバラな人々も、この時だけは祭壇に集まって、静かに祈ります。

湯浅 血縁・地縁・社縁がないと「無縁」と言われるわけですが、あいりん地区や山谷にある縁はそれらのいずれでもないんですよね。だとすると、「別の縁」でがんばっていくしかない。しかしそこに、現代社会全体へのヒントもあると思います。無縁社会を悲観するだけでなく、地縁・血縁・社縁以外の縁を創る。そうして、いわば「豊かな無縁社会」を目指す。新しいかたちの弔いや慰霊祭はそのための取り組みであると考えれば、希望でもある。貧困地域を美化したり神話化したりする必要はありませんが、単に見下したり、忌避したりするのではなく、せっかくの蓄積を正当に評価する視点も持ちたいですね。

湯浅は、各地の子どもの貧困への取り組みなどを見るために全国を回っている。その地域で「信頼されるコーディネーター」が重要だと言う(撮影:岡本裕志)

萩之茶屋南公園(通称・三角公園)の炊き出しに並ぶ人々(撮影:遠藤智昭)

再開発による変化

白波瀬 あいりん地区は今、再び大きく変わろうとしています。その大きな契機は、2012年1月に当時の大阪市長橋下徹氏が提示した、あいりん地区を主な対象にした「西成特区構想」です。構想では、子育て世帯の呼び込みや、観光客誘致のための取り組みが計画されています。

本書でもうひとつ書きたかったことは、これまでじっくりと培ってきたあいりん地区なりの「縁」が、大規模再開発によって失われかねないということです。

湯浅 実は、私は、あいりん地区のようなところは大丈夫じゃないかと思っているんです。長年貧困が集中してきたからこそですが、そこに多様な人たちが関わり、縁づくり、コミュニティづくりを担ってきた。その蓄積によって、たとえトップダウンで「改革」が降りてきても、それを自分たちの文脈に読み替えて、飲み込んでしまうような「したたかさ」があるのではないか、と。「萩之茶屋まちづくり拡大会議」のような、地域にかかわるさまざまな組織が連携する動きを見て、そう思いました。

1970年に設立されたあいりん総合センターには、労働施設、病院、公営住宅、シャワールーム、トイレ、食堂などが入っている。耐震性が問題視され、近い将来に建て替え予定だ(撮影:遠藤智昭)

炊き出しの器を洗う支援者。彼らの多くも元日雇い労働者である(撮影:遠藤智昭)

白波瀬 会議には、相互にかかわりがない、あるいは反目し合うような関係だった、連合町会や簡易宿泊所の組合、支援団体、福祉施設などが一堂に会しています。実際、野犬の問題、道路を違法に占拠して営業してきた屋台の問題、覚せい剤の売買など、長年放置されてきた難問に関しても、この会議が動き出したことで、結果的に行政が重い腰を上げていきました。

湯浅 あれだけ多様な地域団体・住民を同じテーブルに着かせることができた。私は、民主主義の力量というのは、8割は多様な人たちを同じテーブルに着かせる力だと常々思っています。その意味で、あいりん地区は住民自治・民主主義がちゃんと機能しているわけです。それは、行政などに対する単純な反発や迎合ではなく、むしろ行政施策を自分たちの文脈に読み替えて、「活用」してしまうような規定力です。今後、国や行政がまちづくりに介入してきても、それらを逆手にとって、したたかにやっていく。そういう力があると思う。

白波瀬 実際に、まちづくりに尽力している人たちはその自負を持っています。今あいりん地区で暮らしている人たちを守りながら、町の活力を高めていかないといけない。

「進む再開発をどう思っているのか、あいりん地区に暮らす(元)日雇い労働者たちに聞く機会に何度か立ち会いましたが、自分たちの意見を声を大にして語る人は少ないですね」(白波瀬)(撮影:岡本裕志)

「課題先進地域」あいりん地区に学ぶこと

湯浅 個人化、無縁化が進む地域であっても、私が渋谷で出会った飯島さんと彼を取り巻く人々みたいに、あるいは新しい弔いのかたちを築きつつあるあいりん地区のように、それでもなお、包摂力や包容力を失わないこと。その上でいかに「豊かな無縁社会」を築いていくかが重要ですね。

白波瀬 寄せ場にはいろいろな背景を持った人たちを包み込むところがある。逆に言えば、それ以外の地域の包容力が低すぎるわけです。障害があるとか、キャラクターが違うといったことで地域から排除された人たちを、あいりん地区のようなところが引き受けてきた。今後はそれぞれの地域で、弱さや違いを引き受けられる社会になってほしいと願っています。

白波瀬達也氏(左)、湯浅誠氏(撮影:岡本裕志)


古川雅子(ふるかわ・まさこ)
ノンフィクションライター。栃木県出身。上智大学文学部卒業。「いのち」に向き合う人々をテーマとし、病や障害を抱える当事者、医療・介護の従事者、科学と社会の接点で活躍するイノベーターたちの姿を追う。著書に、『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著。朝日新書)がある。

[写真]
撮影:遠藤智昭、岡本裕志
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝