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「人間ピラミッド」と「過労死」の問題点が、似ている理由

ビジネス

© ITmedia ビジネスオンライン 提供

 先週、スポーツ庁が運動会の「組体操」で安全性が確保できないようなら、実施を見送るよう通達をした。

 この背景には近年、運動会の「人間ピラミッド」や「タワー」と呼ばれる組体操が高層化して、事故が多発していることがある。文科省の調査では、昨年だけでも8592件の事故が起きており、46年間では9人死亡、脊椎損傷などで麻痺(まひ)などの障害が残った子どもも92人にのぼっているという。

 そう聞くと、運動会の花形競技がもうお目にかかれないのかと寂しい思いをされる方も多いかもしれないが、このような通達程度で、「人間ピラミッド」や「タワー」が全国の教育現場から消えることはない。多少下火になるかもしれないが、喉元すぎればなんとやらで復活をするはずだ。

 なにを根拠にと思うかもしれないが、過去にもよく似たケースがあった。「マスゲーム」(多くの人が集まって体操などを行なう集団遊技)だ。

 「え? あの北朝鮮将軍様のためにやっているヤツ?」と驚く方もいるかもしれないが、実は我が国は、かの国に負けず劣らずの「マスゲーム大国」だったのだ。

 今でこそ北朝鮮全体主義を紹介するような文脈で登場するマスゲームだが、高度経済成長期の日本人もあの「集団美」が大好きで、あまりにものめり込んだため、教育現場では人間ピラミッド同様に規模の「巨大化」が進んでいた。1957年に静岡で行われた第12回国体では、6000人の児童がマスゲームを披露。1965年の岐阜国体でも、幼稚園児から婦人まで177団体1万3300人がマスゲームを行った。

 その過熱ぶりに、役所から待ったがかかる。1990年4月、総務庁(当時)が「スポーツ振興対策に関する行政監察結果」を公表し、1960年から63年の国体の開催地となった3県で、マスゲームに参加した小中学校を調査したところ、授業時間中に演技練習が行われていたことで、年間の授業時数に届いていなかったことが明らかになったのだ。要は、授業よりもマスゲームの練習が優先されたのである。

●下火になるどころか「高層化」

 こういう批判もあって国体でのマスゲームは一時下火になったが、スケールダウンをして現在でもちょいちょい行われている。例えば、2014年に開催された長崎国体では小、中、高校生約2200人が集められてマスゲームを行った。

 これと同様に8段や7段というそびえ立つような「人間ピラミッド」や「タワー」は多少自粛されるかもしれないが、運動会の「目玉」としての地位は揺らぐことはないだろう。

 それにしても不思議なのは、なぜここまで日本では子どもたちにマスゲームや組体操をやらせることに執着しているのかということではないだろうか。過去を振り返ると、そこには「集団美」を苦労してつくることこそが、何者にも代え難い「教育」だという考えがあるようだ。

 1990年、福岡の高校生が8段のピラミッドの練習中に下敷きになって首の骨を折り、重い障害が残る事故が発生した時も問題視する声があがった。それ以降もちょいちょい大きな事故が起こるたびに「もうやめたら」という意見が出るのだが、そのたびに危険を上回るだけの「教育的価値」があるという声が多くなり、下火になるどころか「高層化」が進んできた。

 例えば、2014年10月5日の『朝日新聞』に登場した、8段にも及ぶ高層タワーを指導している高校教諭もこんなことをおっしゃている。

 高くなれば危険性が増すのは理解している。だが、練習し、努力して一定のハードルを超えていく過程で生徒は多くを学ぶ。

 確かに、「俺は土台なんかやりたくねえ」「重たいから上に立つ役にしてくれ」などというワガママを個々が好き勝手に言い出したら「人間ピラミッド」は成功しない。頭をふんずけられても、背中に激痛が走ろうとも、「みんなのため」に歯をくいしばることが善であり、社会というのはそういうものだということを学ぶのである。

 これは分かりやすく言ってしまうと、体の痛みをもって、「秩序」というものを叩き込まれているわけだ。

 おいおい、ずいぶん棘(とげ)のある言い方をするじゃないかと思うかもしれないが、特に他意はない。運動会、そして組体操の本質に目を向けると、どうしてもこのような表現になってしまうのだ。

●「組織秩序」を叩きこむ効果

 ご存じの方も多いだろうが、学校の運動会というのは、軍隊にルーツがある。

 1874年、東京・築地の海軍兵学寮で英国人の提唱で開かれた「競闘遊戯会」が次第に広がったということもあり、騎馬戦、棒倒しなどなど軍事訓練の名残が色濃く残る。隊列を組んでザッザッと行進をしたり、「前へならえ!」「休め!」というかけ声で統率をされるのもそのためだ。

 組体操も然りで、もともとは日々鍛錬した肉体の優越さを披露する目的はもちろん、「我が軍はしっかり統率がとれていますよ」というアピールに使われた。

 だから、軍隊内の虐待やらにはよく人間ピラミッドが出てくる。例えば、2011年9月、陸上自衛隊第2師団で、陸士長11人が2等陸曹から暴行を受けていたのだが、ここでは6人に人間ピラミッドを組ませ、お尻にアイロンを当てるという「かわいがり」をしていた。

 イラク戦争で米軍がアブグレイブ刑務所に収容されている捕虜を虐待していたときも、裸にひんむいて人間ピラミッドを組ませ、それを写メに収めている。

 そう聞くと、「こいつは運動会の人間ピラミッドは児童虐待だとか批判したいんだな」と思われるかもしれないが、そういうつもりはない。客観的事実として、「人間ピラミッド」には「組織秩序」を教育する効果があり、それを日本の小中学校では応用しているということが言いたいのだ。

 専門家もそうおっしゃっている。スポーツジャーナリストの増田明美さんは、2015年9月22日の『産経新聞』で、運動会における「団体競技」の必要性について、このように述べている。

 全体主義も行き過ぎては問題だが、個人の権利が声高々に言われ過ぎても社会はまとまらない。個性を自ら押し殺して、社会全体のことを考えなければいけないときもあると思う。資源を持たない日本が戦後70年でここまで発展できたのは、モノ作りに打ち込み、ひたむきに働いてきた先輩たちのおかげである。個性を発揮しなくても、社会を支える重要な仕事を担ってきた。

 つまり、「人間ピラミッド」というのは、自己中心的で世間知らずの子どもたちに「組織のために個性を押し殺す」ということを教育する機能があるのだ。

●目に見えぬ「空気」が蔓延

 実はそれはマスゲームも同じである。北朝鮮の「共産主義道徳」という授業の教科書の中には、「人生の価値は、社会と集団のためにどれだけ貢献できるかによって決まる」とある。その「社会と集団への貢献」を身をもって学ぶのが、マスゲームなのだ。

 では、このような教育を施された子どもたちが大人になると、どのような社会をつくられるのか。普通に考えれば、「社会と集団への貢献」をなによりも重視し、個性はもちろんのこと、組織存続のためには、個の命を投げ出すことも厭(いと)わない軍隊的な社会になる。

 この平和な日本が軍隊的社会? バッカじゃないのという声が聞こえきそうだが、このコラムでも前に述べたように、日本企業や官庁の多くは戦時中の国家総動員体制をひきずっているというのは、周知の事実だ。企業や役所がそうならば、社会も戦時中のカルチャーをひきずっていておかしくはない。実際、日本社会はそうなっている。

 それを象徴するのが、「過労死」だ。

 今や「KAROSHI」は、「KARAOKE」などと並んで国際社会で通じる言葉なっていることからも分かるように、日本社会特有の現象だ。

 1980年代から、ILO(世界労働機関)や国際社会から問題が指摘されてきたが、日本政府は30年近くお茶を濁してきた。重い腰をあげてようやく実態調査にのりだしたのも昨年である。

 なぜここまで露骨に日本社会は「過労死」にフタをしてきたのか。一番大きいのは「俺たちも死ぬほど働いてきたんだから、お前らも死ぬほど働けよ」という目に見えぬ「空気」が日本社会全体に蔓延(まんえん)していたことが大きい。

 厚生労働省の「毎月勤労統計調査」によると、1960年の労働者1人当たりの平均年間総実労働時間は、2432時間。現代の労働環境に照らし合わせると、土日休みゼロで1年間ぶっ続けで働くようなイメージである。こういう「スーパーブラック企業」が当たり前の社会で生きてきた人間たちが、管理職や経営者になった時代、若者たちから「仕事が辛くて死んでしまう」なんて声が出てきても、「俺たちだってみんなやってきたんだ、辛くても我慢すれば達成感があるぞ」とそのような悲鳴を「甘え」と受け止め、握りつぶしてきたのである。

●「人間ピラミッド」は必ず崩壊する

 頭をふんずけられても、体が悲鳴をあげても辛いからといって持ち場を離れて逃げてしまうと、全体に迷惑がかかる。「みんなのため」に身を投げ出すことにこそ、人として生きる価値があるというわけだ。

 個人的には、これはマスゲームや「人間ピラミッド」による「社会と集団への貢献」教育の賜物だと思っている。両者が連動しているとすれば、近年になって「人間ピラミッド」や「タワー」が高層化をしているというのも大いに頷(うなず)ける。

 ご存じのように、「過労死」はもはや無視できないほど深刻化している。「ブラック企業」「ブラックバイト」など若者を使い捨てにし、命を奪うまで追い込むようなケースが次々と露呈している。現在、労災認定された過労死過労自殺者は年200人超だが、表面化していないだけで実際の被害者はもっと多いといわれている。

 こういう問題を、「社会と集団への貢献」をなによりも重視する民族はどう解決するのかというと、「じゃあ企業と働き方を根本から見直しましょう」という建設的な話にはなることはない。

 では、どうするかというと「気合」だ。先の大戦末期のように「世の中ってのは厳しいのが当たり前だ、最近の若者は根性が足りん!」という精神論でなんとか乗り切ろうとするのだ。

 もうお分かりだろう。「人間ピラミッド」が近年8段、9段と高層化しているというのは、猛烈なブラック社会を前に子どもたちが尻込みをして逃げ出さぬよう、いままで以上に「社会と集団の貢献」を厳しくしつけをしているともとれるのだ。

 2030年、日本の人口は1000万人減少する。若者ひとりにかかる「負担」はハンパではない。60年代マスゲームに熱中した65歳以上の高齢者が3割に到達するので、「最近の若者は社会全体のことを考えていない」「ワシらと違って根性が足りない」という声が社会を覆い尽くしているというのは容易に想像できる。

 近い将来、「人間ピラミッド」は10段、11 段があたりまえの時代がくるかもしれない。

(窪田順生)